ジョン・レノン

イギリスのミュージシャン。ロックバンド・ビートルズのメンバー ヴォーカル・ギター担当

ジョン・レノン

出生名 ジョン・ウィンストン・レノン 
John Winston Lennon

オノ・ヨーコと結婚後
ジョン・ウィンストン・オノ・レノンと改名。

出生   1940年10月9日 身長 178cm

出身地 イングランド リヴァプール

死没    1980年12月8日(満40歳没)

学歴    リヴァプール・カレッジ・オブ・アート卒業

  • 職業    ミュージシャン シンガーソングライター 作詞家 作曲家 編曲家
    音楽プロデューサー 芸術家 画家
  • 担当楽器 ヴォーカル ギター キーボード ハーモニカ バンジョー ベース
  • 活動期間 1957年 - 1975年
  • 共同作業者 ビートルズ クオリーメン プラスティック・オノ・バンド

ジョン・レノン

1960年代に世界的人気を得たビートルズのリーダー。
ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」として
ソングライティングチームを組み、大半の楽曲を製作した。

1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、
また妻で芸術家のオノ・ヨーコと共に平和運動家としても活動した。

1975年から約5年間音楽活動を休止した後、
1980年12月8日23時頃(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパート
「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗る男性、
マーク・チャップマンにより射殺された。

ジョン・レノンのヒット曲

『ギネス・ワールド・レコード』では、最も成功したソングライティングチームの
一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、
レノンが26曲 (共作は23曲) 、英国チャートでレノンが29曲、
マッカートニーが28曲 (共作が25曲) 」と紹介されている。
ビートルズ時代には、「抱きしめたい」や「シー・ラヴズ・ユー」、
リード・ヴォーカルを採る「プリーズ・プリーズ・ミー」
「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」「ヘルプ!」
「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」「愛こそはすべて」
「アクロス・ザ・ユニヴァース」「カム・トゥゲザー」、
ソロ時代は「ラヴ」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」などを発表した。

ジョン・レノンの生涯

ジョン・レノンの幼年期

1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に
置かれたリヴァプールで誕生。
出生時、父親のアルフレッドは商船の乗組員として航海中で不在、
母親のジュリアも他の男性と同棲していたため、
母親の姉・メアリー(ミミ伯母)夫婦のもとで育てられた。
ミドルネームのウィンストンは、当時のイギリスの首相のウィンストン•チャーチルから。

1946年、父親のアルフレッドが帰国し、父親に引き取られ数週間一緒に暮らすものの、
母親のジュリアがジョン・レノンを連れ戻すが、母親と暮らすことはできず、
再び、ミミ夫婦のもとで育った。父親も行方不明になった。


ジョン・レノンの少年時代

実の両親と共に育つことがなかったことから、少年時代は反抗的でケンカ騒ぎを起こすことも少なくなかったという。1952年9月にグラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。1955年に父親代わりだったミミの夫・ジョージが死去。

1956年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、
ロックンロールの洗礼を受ける。
この頃ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、
ジュリアの家へ行き来するようになった。
ジュリアはジョン・レノンにバンジョーのコードをいくつか教え、音楽へと関心を向けさせた。

1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール」を作曲
(この曲は1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、
「アンソロジー1」で公式に発表された)。
当時からギター・ヴォーカルを担当していたが、前述の通り実際に教わったのは
バンジョーのコードだったため弦を4本しか使っていなかったという。


ジョン・レノン,ポールとの出会い

3月、クオリー・バンク校で、ビートルズの前身であるスキッフルバンド
「クオリーメン」を結成した。
7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンの
コンサートで共通の友人、アイヴァン・ボーンの紹介により
ポール・マッカートニーと出会う。
数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。
エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリーと言った
アメリカのロックンロールに夢中になった。


ジョン・レノン, ジョージ・ハリスンとの出会い

1958年2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスンと出会う。
間もなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。

ジョン・レノン,母の死

1958年7月15日、母・ジュリアは非番の警察官が運転する車にはねられ死去。
この母・ジュリアの死は、ジョン・レノンのその後の人生に大きな影響を与え、
また既に(1956年 14歳の時)母親を乳癌で亡くしていたポールとの友情を
固める要因にもなった。

1958年9月、ジョン・レノンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいで
リヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art) に入学する。
そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。
1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。
この後しばらく、ドラマーはパートタイマーが続いた。


ジョン・レノン,ハンブルク

この頃からリヴァプールだけでなく、ハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。
ジョン・レノンはハンブルクの楽器店で1台目のエレキギターであるリッケンバッカー325を購入した。

1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの
友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。
バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」そして
「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と変わっていた。
8月「ザ・ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。

1961年4月ハンブルクでスチュアートは画家に専念するため脱退。
ジョン・レノンはすぐにポールを説得してベーシストにする。
ポールはヘフナー500/1を演奏することになる。また、ジョンはこの時、
クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。
スチュアートは恋人アストリッドとハンブルクに残るがまもなく脳腫瘍で死去した。
6月ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンド
として「マイ・ボニー」をレコーディングした。


ジョン・レノン最初の結婚

1962年8月23日、シンシア・パウエルが妊娠したのを切っ掛けに彼女と結婚した。

シンシアとの間の長男・ジュリアン・レノンは1963年4月8日に誕生した。
しかし、両親と生活したことのないジョンは、ジュリアンにどう接すればいいのか
分からずに戸惑っていた「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?
やり方が分からないんだ』とジョンに聞かれたことがある」とポールは語っている。
ジュリアンも後に「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。
僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、
父さんとの写真よりもはるかに多い」と語っている。


ジョン・レノン,キリスト教発言

1966年3月4日、ロンドン・イヴニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴ
とのインタヴューでジョン・レノンは次のような発言を行なった。

「キリスト教は消えてなくなるよ。そんなことを議論する必要はない。
僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やイエスよりも人気がある。
ロックン・ロールとキリスト教。そのどちらが先になくなるかは分からない。
イエスは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。
僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」

この発言はイギリスではほとんど無視され、大きな反響を呼ばなかったが、
同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、
バイブル・ベルト(キリスト教根本主義が信奉される南部や中西部)の保守的
宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。
ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、彼らのレコードやグッズが燃やされた。
スペイン及びヴァチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの
音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンは
シカゴで以下のように釈明会見を行い、ヴァチカンも彼の謝罪を受け入れた。

「僕がもし、 "テレビがイエスより人気がある" と言ったなら、
何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。
僕は神に反対しないし、反キリストでもなければ反教会でもない。
僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。
僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。
僕はビートルズがイエスより良くて偉大だとは話してないし、
イエスを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは
間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ」

ジョン・レノンとヨーコ

1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止した後、ジョンは映画
『How I Won The War』(日本では1993年にビデオで初めて発表。
邦題: 『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。
11月にはロンドンのインディカ・ギャラリーで彼は後に二人目の妻となる
オノ・ヨーコに出会った。
美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたことから日本や東洋文化に
興味を持っていたジョン・レノンは、禅や空の概念に強い好奇心を寄せており、
これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示した。
ヨーコの個展に出掛けたジョン・レノンが見た ヨーコの作品に、YESという言葉を
虫眼鏡で見る仕掛けがあり、ジョン・レノンがそれをいたく気に入った逸話は有名である。

二人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』
の録音期間より、ヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。
ジョンは1968年2~4月のインドでの修行中も、ヨーコと文通で連絡を取り合っていた。
5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョン・レノンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に
招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。
シンシアはその年の7月に離婚申請を行い、11月8日に離婚が成立した。

1969年3月にジョン・レノンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れた
アムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という
平和を訴えるパフォーマンスを行った。

結婚後間もなくジョン・レノンはミドルネームのWinston
(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルにちなんで名付けられた)から
Onoへの変更を申し立てたが、変更は認められずパスポート、グリーンカードなどは
John Winston Ono Lennonと表記された。

彼らは多くのメディアから奇妙なカップルとして取り上げられる一方、
反戦運動における重要人物としても見なされるようになった。
このほかにも1969年以降は、ジョン・レノンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンド
としての活動やヴェトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。
イギリスがヴェトナム戦争の支持を表明したことで、大英帝国勲章を返却した。
「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」 (ともに1969年) などヨーコと共同で
行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や
'War Is Over (If You Want it)'(1971年)の街頭広告を行った。

ジョン・レノンの本格的なソロ活動前に二人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』、
『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』、『ウェディング・アルバム』の3枚の
アルバムを発表した。またジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって
『ヨーコの心』(1970年)、『フライ』(1971年)、『無限大の宇宙』
(1972年)、『空間の感触』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。

二人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』
(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、
『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)が発表された。


ジョン・レノン,ビートルズ時代

1960年代、ビートルズはロックンロールに大きな影響をもたらし、
このジャンルの発展に貢献した。
ジョン・レノンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、
一人称で書かれた個人的な内容であることが多い。
ジョン・レノンのこうした作風とポールのポジティヴな作風とは、
ビートルズの楽曲においてしばしば好対照をなしてきた。

ビートルズにおけるレノン=マッカートニーの共作においては
「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」
などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。
「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲だが、
「ミッシェル」「恋を抱きしめよう」などで聴かれるややブルージーで
マイナー調のメロディーは、共作者ポールの楽天的に聴こえるメロディーに
陰をつけ曲に哀愁感をもたらしたとジョンは述べた。

後期においては単独作が増え、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニヴァース」
「ビコーズ」のような洗練された美しいメロディーを持つ曲や、
「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」のようなブルース・ロックの曲を発表した。


ジョン・レノン,ソロ時代

こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな和声の進行と歌詞に
特徴づけられる曲調へと変化し、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」の
路線を継ぐ「マザー」「コールド・ターキー」「ウェル・ウェル・ウェル」
「真実が欲しい」「アイム・ルージング・ユー」のようなヘヴィーなロックを
発表している。そして、「インスタント・カーマ」や
「ノーバディー・トールド・ミー」のような早口のラップ調のヴォーカルが
特徴の軽快なロックも創作された。

また「ラヴ」「ウーマン」「グロー・オールド・ウィズ・ミー」のような美しい
メロディーの曲がある一方でビートルズ時代の
「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」「ジュリア」のように繊細な
メロディーで、かつ不安定な和声進行を示す独特の曲調は、
同時期 (1967~68年) に原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。

また、レゲエやカリプソのリズムはビートルズ時代の「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」
での有名なレノンの冒頭のピアノ・プレイが先鞭をつけたが、
さらに「マインド・ゲームス」における本格的なレゲエの導入へと至った。
1980年のインタヴューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを
要したとの発言がある。 ブラック・コンテンポラリー調の曲が多い
『心の壁、愛の橋』の「愛を生き抜こう」ではビートルズの
「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式を踏襲した複雑な楽曲構成に挑んだ。

こうした中でレノンの作曲の到達点の一つといえるのは、わずか15分で
書かれたといわれる「ウーマン」である。
この中で半小節ごとに変化する和声進行に従って、ギターの美しいアルペジオの
フレーズが奏でられ、最終部で半音階上昇などカデンツにさまざまなテクニック
が駆使された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を
発展させたとレノンが1980年のインタヴューで述べている。


ジョン・レノン,ポール・マッカートニーとの関係

ビートルズ解散直後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあったり、
ポールがニューヨーク滞在中、ジョンに電話すると
「おまえが俺に何の用があるってんだ?」と返され、挙句には
「Yeah, yeah.」という言葉遣いにポールが
「そんな刑事コジャックみたいな言い方(ニューヨーク訛りのアメリカ発音)するな!」
と言い返すなど深い確執が存在したが、ビートルズのアラン・クレインとの
マネージメント問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かう中、
1970年代も中頃になると、マッカートニーが自分のバンド「ウイングス」で
アメリカ・ツアーを行なった際には時折レノンのもとを訪れるなど親交を
取り戻すようになった。
また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを
行ない、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールの
スタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。

ジョンとポールが最後に合った日はテレビ番組のネタで「『サタデー・ナイト・ライブ』
にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?」、
「一流クラスの標準ギャラで3200ドル」という話を見た。
2人は盛り上がり、「ダウンタウンならすぐ近くだ。これから2人で乗り込もうぜ!」
と意気投合し、盛り上がった。実現はしなかったものの、ポールは
「昔に戻れたみたいでとてもうれしかった」と語っている。

またジョン・レノンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。
他の奴が言うのは許さない」
と発言した。ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、
マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったという。
またジョン・レノンは「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。
ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった。」と述べた。

ジョン・レノン殺害事件

1980年12月8日の午前中、自宅アパートのダコタ・ハウスでジョン・レノン
アニー・リーボヴィッツによる『ローリング・ストーン』掲載用写真の
フォトセッションに臨んだ。
11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットのヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、
ビートルズ全盛期の頃のように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョン・レノン
さらに短く髪をカットし、グリースでリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。
その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるものであった
(10月ごろには伯母ミミに電話で、「学生の頃のネクタイを出しておいてよ」と頼んでいる)。

フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだ後、17時にはヨーコの新曲
「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、
ジョン・レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ
「ザ・ヒット・ファクトリー」へ出掛けた。

一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組の
インタヴューを受ける。この最期のインタヴューで、レノンは新作や近況に
ついてや、クオリーメン時代のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いに
ついて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」、
「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている。

22時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンが
アパートの前に到着した。
2人が車から降りた時、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが暗闇から
「レノン?」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、
4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた! (I'm shot!) 」と
2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。
警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。

警官の到着時にジョン・レノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う
危険な状態であった。
そのため、2人の警官が彼をパトカーの後部に乗せ、近くのルーズヴェルト病院
に搬送した。1人の警官が瀕死に陥っていたジョン・レノンの意識を保たせるため
質問すると、声にならない声で、自分がジョン・レノンであること、背中が痛い
ことを訴えたというが、彼の声は次第に弱まっていった。
病院到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、
ジョン・レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズヴェルト病院で
23時過ぎに死亡した。
レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの
「オール・マイ・ラヴィング」だったという。

事件後犯人は現場から逃亡せず、手にしていた『ダブル・ファンタジー』を放り出し、
警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこち
そわそわしながら歩いていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、自分の単独犯行である
ことを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、
「お前は、自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、
「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた。

病院でジョン・レノンの死を伝えられたヨーコは「彼は眠っているということ?」と
聞き返したという。後に病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師は
ジョン・レノンが死亡したことを確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、
輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。

ジョン・レノンの殺害に関して、レノンの反戦運動やその影響力を嫌った「CIA関与説」
などの陰謀説も推測されたが、公式には単独犯行として結論づけられている。
犯人のマーク・チャップマンはニューヨーク州法に基づいて仮釈放の可能性がある
無期刑の判決を受けた。チャップマンは服役開始から20年経過した2000年と、
その後は2002年、2004年、2006年、2008年、2010年、2012年と2年ごとに仮釈放審査の対象になったが、本人が反省していない、再犯の可能性が高い、
遺族が強く反対している、釈放したらジョン・レノンのファンから復讐で殺される可能性がある、
などの理由でいずれも仮釈放申請を却下され、2013年時点で服役中である。

イマジンの碑



ダコタ・ハウスからすぐの

セントラルパークにあるレノンを偲ぶ「イマジンの碑」


この事件は、元ビートルズの

3人にも大きなショックを与えた。


カナダに滞在中だったリンゴは後に妻となる女優のバーバラ・バックとともに
ニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。
マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスンは「過ぎ去りし日々」
(ポール、妻リンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンが
バック・コーラスで、リンゴがドラムで参加)をレノンの追悼曲としてそれぞれ発表した。

また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。
ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズは
「ジョンを殺した犯人に対しては、憎しみが薄れることはなく増すばかりだ」
「ジョンを殺した奴を、オレが必ず撃ち殺してやる」と発言している。

日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催
による追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われ、
『心の壁、愛の橋』のフォト・セッションでの巨大写真が掲げられ、
ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。
その後も節目ごとに追悼イヴェントが行なわれている。


Wikipediaより~


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