オードリー・ヘプバーン

オードリー・ヘプバーン
  • 本名 オードリー・キャスリーン・ラストン(英: Audrey Kathleen Ruston)
  • 別名義 エッダ・ファン・ヘームストラ
  • 生年月日 1929年5月4日
  • 没年月日 1993年1月20日(満63歳没)
  • 出生地 ベルギーの旗 ベルギー・ブリュッセル・イクセル
  • 死没地 スイスの旗 スイス、ヴォー州
  • 国籍 イギリスの旗 イギリス
  • 身長 170cm
  • 職業 女優
  • 活動期間 1948年 - 1989年(女優)
  • 配偶者 メル・ファーラー (1954年 - 1968)
    アンドレア・ドッティ (1969年 - 1982)

どのように言えばいいのでしょう。

とにかく私の人生はとても幸せでした。

オードリー・ヘプバーン

オードリー・ヘプバーンの前半生

オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)
イギリスの女優。日本ではヘップバーンと表記されることも多い。
ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界の
アイコンとして知られる。米国映画協会 (AFI) の「最も偉大な女優50選」では
第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。

オードリー・ヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、
イングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中には
ナチス・ドイツが占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。
各種資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。
これは、戦時中にナチス・ドイツ占領下にあったオランダで、「オードリー」と
いう名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの名前を
もじって(EllaをEddaとした)一時的に変えたものである。
5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル (en:Sonia Gaskell)
のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶために
ロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。

イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品
『ジジ』(en:Gigi (1951 play)) で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』で
アカデミー主演女優賞を獲得した。
その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、
『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、
『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)
などの人気作、話題作に出演している。
女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、
英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である
『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でトニー賞を受賞している。
さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、
アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ
数少ない人物の一人となっている。

ヘプバーンの女優業は年齢と共に減っていき、後半生のほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)
での仕事に捧げた。ヘプバーンがユニセフへの貢献を始めたのは1954年からで、
1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。
1992年終わりには、ユニセフ親善大使としての活動に対してアメリカ合衆国における
文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。
この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で
虫垂癌のために63歳で死去した

『ローマの休日』とオードリー・ヘプバーン高まる人気

1953年に公開されたアメリカ映画『ローマの休日』で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。
『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族
としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人
新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。
『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラーを望んでいたが、
監督ウィリアム・ワイラーがスクリーンテストを受けに来たヘプバーンを
アン王女役に抜擢した。
後にワイラーは「彼女(ヘプバーン)は私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、
才能をすべて備えていた。さらに彼女にはユーモアがあった。
すっかり彼女に魅了された我々は「この娘だ!」と叫んだよ」と振り返っている。

製作当初のフィルムでは、主演男優グレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの上に表示され、
ヘプバーンの名前はより小さなフォントで、ペックの名前の下に置かれていた。
しかしながらペックがワイラーに「変えるべきだ。彼女は僕とは比べ物にならないような
大スターになる」として、ヘプバーンの名前を、作品タイトルが表示される前に、
ペックの名前と同じ大きな文字で表示することを提案した。

『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、
思いも寄らなかったアカデミー主演女優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、
ゴールデングローブ主演女優賞をヘプバーンにもたらした。
A. H. ワイラーは『ニューヨークタイムズ』に、以下のような劇評を残している。

『ティファニーで朝食を』オードリー・ヘプバーン

ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた三カ月後の1960年に、
オードリー・ヘプバーンはブレイク・エドワーズの監督作品
『ティファニーで朝食を』に出演した。
この映画はアメリカ人小説家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、
原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。原作者のカポーティは大幅に
小説版から離れた脚本に失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを
演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した。
これは、カポーティが主役のホリー役には友人であったマリリン・モンローが適役
だと考えていたためだった。
また、映画脚本のホリー役も原作からはかけ離れた演出がなされており、
ヘプバーン自身も「娼婦の演技はできない」ことを製作者のマーティン・ジュロウにもらしていた。

原作のホリーの魅力でもあった性的風刺に満ちた言動は皆無だったが、
ヘプバーンは1961年度のアカデミー主演女優賞にノミネートされ、
ヘプバーンが演じたホリーはアメリカ映画を代表するキャラクターになった。
このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役といわれることも多く、
映画版『ティファニーで朝食を』でのホリーのファッションスタイルと洗練された
物腰が実際のヘプバーンと同一視されるようになっていった。
しかしながらヘプバーンはこの役を「人生最大の派手派手しい役」と呼び
「実際の私は内気な性格なのです。
このような外向的な女性を演じることはかつてない苦痛でした」と語っている。
『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、ヘプバーンが身にまとっている
ジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレス(シンプルな黒のカクテルドレス
(en:Little black Givenchy dress of Audrey Hepburn)) は、20世紀のファッション史を
代表するリトル・ブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだといわれている

オードリー・ヘプバーン死去

1992年9月終わりに、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ
戻ったオードリー・ヘプバーンは、腹痛に悩まされるようになった。
専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、精密検査を受けるために10月に
ロサンゼルスへと渡った。
11月1日にシダーズ=サイナイ医療センター (en:Cedars-Sinai Medical Center)
で診察を受け、担当医が腹腔鏡検査でヘプバーンの腹部に悪性腫瘍を発見し、
虫垂にも転移していることが判明した。
これは腹膜偽粘液腫と呼ばれる極めて珍しいがんの一種だった。
何年もかけて成長した悪性腫瘍が転移しており、小腸をも薄く覆い尽くしていた。
外科手術のあと、医者はヘプバーンに抗がん剤フルオロウラシルとフォリン酸の
投与による化学療法を開始した。手術から数日後ヘプバーンは腸閉塞にかかり、
薬物療法だけでは身体の痛みを和らげることができなくなった。
12月1日に再手術が行われたが、すでに悪性腫瘍が身体各部に転移しており、
外科手術による摘出は不可能であるという決断がなされた。

ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの
最後になるであろうクリスマスを自宅で過ごさせるために、
スイスの自宅へとヘプバーンを送り返すことを決めた。
しかしながら術後のヘプバーンは回復しきってはおらず、通常の国際便での旅には
耐えることができない状態だった。
このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年にわたる友人だった
ユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・
メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために手配した。
そして多くの花々で満たされたこのジェット機が、ヘプバーンをロサンゼルスから
ジェノヴァまで運んだ。
1993年1月20日の夕方、ヘプバーンはスイスのトロシュナ (en:Tolochenaz) の
自宅で、がんのために息を引き取った。
ヘプバーンの死を知った旧友グレゴリー・ペックは、ヘプバーンが好きだった
ラビンドラナート・タゴールの詩を涙ながらに朗読している。


人生航路は大きな川の流れによく似ている。
その急激な流れの力によって、今まで流れたことのない、
新しく、予想もしなかった水路が開かれてゆく

ラビンドラナート・タゴール


オードリー・ヘップバーン

Audrey Hepburn
オードリー・ヘップバーン

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